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設楽原の戦い〜木の柵を張り巡らし空掘で守る近代戦への分岐点

織田信長が3000挺の鉄砲隊を編成して武田の騎馬隊を打ち破った…というお話が有名な設楽原の戦いですが、現地に行ってみて少しイメージが違いました。

まず、設楽原というから高原のようなだだっ広い原っぱが広がっているのかと思いきや、小高い丘の連続です。映画などで見る草原を馬が走って来るのを鉄砲隊が一斉射撃するイメージとはほど遠い。

実際に、現地で再現されているいわゆる「馬防柵」はこんな感じ。

小高い山というか丘というか、林を背にして木の柵を張り巡らしていたということらしい。

絵図で残っている合戦絵巻も確かにそのように描かれています。なるほど、織田徳川連合軍は山を背に川を前にしてその間に柵を作り敵の進撃を防いだということでしょう。信長本陣には柵と山が防衛線になっているという形のようです。

この上の写真の「設楽原決戦場」と書かれたところが、馬防柵が復元されているところですが、この狭い地域で騎馬隊と鉄砲隊が激突したんですね〜。

こんなところに何万人もひしめきあったら、ぎゅうぎゅう詰めだったでしょうね。

これを武田側からみるとこんな感じです。

柵の向こうに信長本陣があるのが分かると、ここで決戦を挑んで一気に雌雄を決しようとする武田勝頼の考えもわからないこともない…それが織田徳川連合軍の狙いにまんまと引っかかっているんですけどね。

さて、なぜこの人たちは馬防柵の前に出ちゃってるんでしょうか?

射程距離が届かなかったのかな?前に出て射撃、弾込めに後ろに下がっての繰り返しだったのか?

武田騎馬隊といっても、日本の昔の馬は足も太くて背の小さい太い身体の木曽馬でしょうから、それが近づいてきても柵の後ろに回れば簡単には馬は入って来れないで足止め、そこを狙い撃つ。敵がひるめば前に出て遠くから狙い撃つ…その繰り返しだってのでしょう。

三段撃ちというような話がよくされていますが、狙って撃つタイミングがバラバラになれば自然に数段階に分けてとめどなく撃ってくるように感じちゃうでしょうね。

ですから、この戦いは「やあやあ我こそは!」という一騎打ちの戦い方から、集団による戦争への分岐点だったのだろうと思います。

新城市設楽原歴史資料館へ行ってみました。

その屋上に登ってさっきの馬防柵の方を見ることが出来ました。やはり、高低差が結構ありますよね。

とても大きな鉄砲が展示してあり、すごい迫力だなあ、こんなので狙われたら絶対、戦には勝てないなあと説明を見たら、

カモ…ですか…

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