長篠城の戦い〜鳥居強右衛門「援軍は…来ますぞーっ!」

あれは確か小学生の頃。マンガで読んだ歴史のお話です。さらには、あれは確か大人になってから。水曜どうでしょうで見たお話でもあります。

ご存知ない方もおられるかと思い、ちょいと物語を書いてみたいと思います

甲府から信濃を治めた武田信玄が上洛しようとしたものの途中で病死してしまい、上洛軍は甲府へと戻って行きました。そして側室の子である武田勝頼が引き継ぎ、父親に負けぬよう家臣に威厳を示そうと再び徳川家康の領地へと攻めて来ました。

その頃、徳川家康の重要拠点は浜松、息子の信康に守らせる出身地の岡崎が東西拠点でした。

武田勝頼は、岡崎の徳川信康を調略しようとしましたが露見して失敗、それどころか信康は裏切りの汚名を着せられ、実の父である徳川家康によって死へと誘導されてしまいます。

調略失敗にさらに焦った武田勝頼は、岡崎がダメなら浜松との中間にある「長篠城」に狙いをつけます。

(白い矢印が、左が岡崎攻めで右が浜松攻め。その真ん中の長篠城攻めを選択したのですね)

長篠城は、奥平貞昌(のちに信昌と改名するのですが)が守っていましたが、武田を裏切って徳川方についたのです。これを攻めて戒めとしたいのが武田の狙いでした。武田勝頼は人質の妻子を処刑して攻めて来ました。

武田15000人に対し奥平500人で籠城するも、本丸以外を占拠され食料庫も失い残り4日分の食料しかなくなったことから、徳川家康の援軍はいつになったら来てくれるのか?と考えるようになります。

そこで、奥平貞昌は、鳥居強右衛門を呼び、深夜に城を抜け出して確かめるよう命じます。

長篠城は東西から流れ込む川が合流する深い断崖絶壁の上に立つ堅牢な城でした。それを地図で見てみると、

見事な景色ですね。

この川の中へと鳥居強右衛門は脱出し、川を下って徳川家康の元へと進むことに成功しました。

そこで徳川家康だけでなく織田信長の援軍も加えてが38000人来ることを知ります。それを知らせに城へと戻る鳥居強右衛門。ところが、城を取り巻く武田軍に捕まってしまうのです。

すでに狼煙を上げて「援軍きたる」の報は城へと伝達済みでした。それでも城へ戻ろうとして捕まったのです。城内の仲間と苦労を共にしたいと考えたのでしょう。ところが武田勝頼は、「援軍は来ぬから開城せよ」と大声で叫ぶよう鳥居強右衛門に強要します。言う事を聞けば命を助けてやると。

ところが鳥居強右衛門はそれを受け入れたフリをして城の前へと進み「援軍は…来る!あと2、3日の辛抱だ」と叫ぶのです。

その後、見せしめに鳥居強右衛門ははりつけにかけられ処刑されます。

その姿を見て、敵ながらあっぱれと思った落合佐平次道次という人物が、貼り付け姿を絵に書き記しその後の旗印として使ったということが記録に残ったのが、こちら。

なんという見事な物語なんでしょう。

ここまでして忠義を尽くす日本人の意識は、文字も読めない人も多いそんな昔の時代に、どうやって醸成されたのでしょう。

不思議でなりません。