織田徳川連合軍は設楽原に布陣。武田を誘い出す作戦へ。

鳥居強右衛門は磔にされて死ぬことになりましたが、織田徳川の連合軍が長篠城を助けに来ることは城内に伝わり、城を明け渡すことは期待できません。

そこへ西から織田信長がやって来て、長篠城に対峙している武田軍の背後へと近づいて来ました。

それが、この織田信長の本陣跡なんだそうです。いやあここにあのうつけと呼ばれた織田信長が歩いていたのかと思うと、なんとも不思議な感じ。

さて、ここはなんと長篠設楽原パーキングエリア(下り)の中なんです。

このパーキングエリアから信長の本陣があったという茶臼山へと歩いて行けるようになっていました。なかなかお見事な演出です。日本道路公団時代には考えられなかったですが、民間会社になって、こういう気の利いたことを出来るようになったんですねえ。

山の上からは木々が生い茂り何も見えませんでしたが、見晴らしは抜群でした。

合戦場の戦況の知らせを受けながら、いざとなればここから本隊が後詰に回るという作戦だったのでしょうか、北側には羽柴秀吉も布陣しており、そうそうたるメンバーがここに集まっています。

この写真の一番手前がその茶臼山。写真左上の奥の方の山裾で川が合流しているところに長篠城があります。

設楽原は「原っぱ」というよりは小高い山がいくつも並ぶ見通しの悪い場所でした。織田信長がここに陣取ったという知らせを聞いた武田勝頼は、背後に迫る敵の方へと振り返り、織田信長を迎え撃つ覚悟で、設楽原決戦場へと近寄って来ます。

なぜでしょうねえ。城も落とせず川を背にして、もう明らかに不利だと思うのですが、武田勝頼はここで織田徳川連合軍と戦おうと、誘い出されて来るのです。

そこで、かの有名な鉄砲を使った近代戦が始まるのでした。