マスオは自分が働く財閥グループの金融部門では、皆が一目おくやり手のトレーダーだ。商社時代の活躍から才能を見込まれてグループ内で転籍を繰り返し、今の地位に登りつめた。
理系の大学を出たカツオもまだ働き始めたばかりだが、昔の友だちと比べても年収は良い方だと聞く。ワカメは…と、その話はまた次の機会にしよう。
そうして磯野家とフグ田家の合計収入はマスオとカツオを合わせて年間546兆円である。とはいえそのほとんどはマスオの給料である。カツオの収入はまだマスオの半分にも満たない。
磯野家とフグ田家は、他の家族と比べると裕福な方ではあるが…とはいえ遊んで暮らせるほどの余裕があるわけでもない。
それもそのはず。ここ数年はまったく収入が上がらないのだ。
その上、どうにも上手くいかない日々が続いている。つい数年前には地震で家が倒壊しかかって、修理代だけでも目が飛び出るほどお金を使っている。さらには、幼少期のカツオのイタズラで家の前の道路で作業中だった関東電力の大型発電機が中庭に落下…そのまま発電機の燃料だったガソリンが大量に流れ出してしまい、中庭の土壌が汚染されてしまった。
部屋に悪臭が入るので、今も庭の雨戸を開けることが出来ない。関東電力からいくらか賠償金を払ってもらったが、全く足りないのでこれを掃除するだけで毎年多額の費用がかかっているのだ。
また、マスオは悩んでいた。
『そんな状態で家を建て替えるだなんて…』
昨夜の雪は止んだがどんよりとした雲はまだ空の上にとどまっていて、窓から入る光も暗い。今日は仕事も休みだから良かった。これで出勤する人は大変だろう。
マスオは昨夜にしっかりと食べられなかったので朝から空腹を感じていた。コーヒーも飲みたいが買い置きが切れていたので仕方なく駅前のコンビニでも行こうと家を出る決心をし、きっと身を切るほど寒いのだろうからとカーハートのダックコートを着込んだ。
玄関を出て駅の方角へと向かうと、前からカツオが歩いて来た。
「カツオくん、昨日は帰らなかったのかい?」
「ええ、マスオ義兄さん。昨夜は仕事が遅くなった上にもうバスも動かなくて。タクシーもすごい行列だったので会社の近くで泊まることにしたんです」
「そうだったのか。大変だったねえ」
カツオの目の周りに少しクマが出来ているように見えた。泊まるといってもぐっすり眠れるような良いホテルでは無かったのだろう。あの元気な姿しか知らない人にはこんなにやつれたカツオの姿は想像も出来ないに違いない。
とはいえ、不景気だというわけではない。残業は多いが残業代はきちんと払われる。というより、払われるようになってきた。今の悩みはとにかく仕事が多過ぎることらしい。カツオはマスオと同じ財閥グループのシステム開発子会社でITプログラマーをしていた。
「システム開発が大変らしいね」
「そうなんですよ。もうみんな人がいないから機械化したいと言って、なんでもプログラムにしようって言うんです。きっともうすぐ考えることも止めるんじゃないかな。人工知能に任せちゃえって」
「単純作業ならロボットかい?」
「そうなんですよ。けれど、ロボットの制御にもプログラムが必要なんです。結局何もかもプログラムにしちゃえば良いって…まぁ僕らはそれで食いっぱぐれることは無いんだから有難い話だけど…もうウンザリ…」
「そんなに引き合いがあるなら、技術者だけじゃなく営業さんも大変なのかい?」
「そんなこと無いですよ。うちの営業なんて机に座ってりゃあ注文来ますから。ややこしいこと言うお客なら無視すりゃいいんです。完全な売り手市場ですよ」
「へえ…」
マスオは驚いたフリをした。実は自分もトレーダーとしてプログラム開発を依頼することがある。確かに今はその依頼も社内のいたるところから情報システム部に集まっているらしく、捌き切れないと言っていた。その上、セキュリティだ何だととにかくうるさいらしい。
ちょっと自分の使いやすいように変更して欲しいと言ったところで、改良してもらえる雰囲気は無いのだ。嫌なら使わなくていいよというセリフが情報システム部員の専売特許になっていた。
「そもそも、自分の仕事の内容も他人に説明できないのに、プログラムも何もあったもんじゃないんだ」
「…」
「楽にしてくれ、って言うだけで何が楽なのか説明できない。仕事を部下に教えることも出来ない人間が、仕事をコンピューターに教えることなんて出来っこないよ」
「カツオくん…」
「もっと分かりやすくしてくれと言うくせに、お前が何を言ってるのか分かりやすくしてくれよ」
カツオは捨て台詞のように言い残して家の方向へ歩いて行った。
カツオも人間である。かなり不満が溜まっているようだ。磯野家でコンピューターを使えるのはカツオだけ。ところが、カツオがプログラムをして解決しないといけない仕事が、カツオ6人分もの仕事量まで溜まっているのである。それは1人でこなせるはずが無い。6人分ということは、病気のフネと猫のタマを除いて、①ナミヘイ、②マスオ、③サザエ、④カツオ、⑤ワカメ、⑥タラヲの6人が、突然明日からカツオと同じレベルの一流品質でプログラム開発できるようにならなきゃいけないという計算になる。そんな夢のような話を言われても、人間が社会に変化に追いつけるはずもない。
もはや、家庭内における労働力の需給ギャップを露呈しているのだ。
このように、産業構造が大きく変わる時には、それに適合していくだけの人間の成長と進化が必要なのだが、それはそう簡単にはいかない。IT技術者を育てなければいけないという教育が小学生から始まることになったが、それが身を結ぶのは20年も先の話だ。今いる社会人が、IT技能を磨かなくては到底追いつかない。ところが、人はそう簡単には努力しない。
人間の意識が変わるためには大きなショックが必要だ。例えば、このままでは生きていけない、収入が無くなるという危機感があれば、自ずから変わろうとする人も増えるのだが、今のようにカンフル剤による好景気の下に楽に生きられる時代にはワガママが通用してしまう。
ワガママを言ってぬるま湯に使っていても、それなりに生きていけるのだから進歩しなくなる。
そんなワガママのツケを今の時代に既に背負わされているのが、次代を担う若者なのではないかと、マスオはカツオの背中を見ながら思うのだった。
(つづく)