神話「国引き」を現代風に考えてみた。自然との共存について。

出雲を初めて訪れて感じたことは、古代から伝わる神話がそのまま街づくりに活かされていることでした。旅館の休憩室でたくさんの神話の本が置いてあって、その中に「国引き」というのが目に留まり、ああそれって一昨日に出雲に到着した時に見たあのでっかい彫刻のお話なんじゃない?と気付いて読んでみました。

まあ、ざっくり言うと神様が、出雲の土地が狭いからって大陸の土地を引っ張って広くしたというお話。

その本にもう一つ大事なことが書いてありました。

出雲の国に伝わる神話は、昔は教科書にも載っていたのに、先の戦争が終わった直後からもう大きな声では言えない状態になって、この地方だけでこうして語り継がれ、今の平和な世の中になってようやく見直されていると。

まあ確かに、神話というのは天皇陛下の神格化と関係があるというので戦後は否定的な扱いになったんだろうなぁと容易に想像がつくわけで。悲しい歴史ですね。神話が悪いわけじゃないのにな…。

刃物が危険でも無ければ調理が出来ないので要は刃物の使い方が悪いだけ。神話から愛国心を学んでもそれを争い事に結びつけ無ければ良かっただけ。

左右に極端に振れる行き過ぎが、なんでも悪くしちゃうと思う。

さて、話を国引きに戻して。


神話が生まれた頃の出雲の地形はこんな感じだったと推測されているそうです。

なるほど、こうやって見ると海を隔てて向こう側にある土地との間が川の土砂が流れ込んで陸続きになっていく様は、古代人から見ればまさか川が土砂を運んでるとは思いもよらないわけですから、新しい土地が広がっていくように見えて、まるで神様が土地を引っ張って来ていると勘違いしてもおかしくないわけです。

その自然の力を神の力と置き換えて、感謝するという神話なのでしょう。

非力でちっぽけな人間が、自然に感謝するというお話を広めるのに、何の問題があるというのでしょう?

神様がお怒りになると洪水も起きるし、御加護があれば土地は増え豊かな耕作地にもなる…。

八百万の神々が同居するというこの日本の宗教観には、どんな神様も他の神様を否定するようなバカなことはせずこの国に同居していて、何なら神在月には一同に集まっちゃうという寛容さ。

そりゃ仏教やキリスト教が入って来たって、みんな寛容に受け入れたことでしょう。一神教ではないのだからねえ。これほど柔軟な考え方は、この国の自然に適応して生きてきた人々の文化なのでしょう。

また、別の本を見ると、あの有名なヤマタノオロチのお話もありました。

川が溢れて荒れ狂うさまをオロチに見立てて、作られた神話じゃないかな…なんて、このクネクネと曲がっている川を見て思いました。

HYMERくんとの旅でアウトドアを楽しんで自然と触れ合うことが増えて、ますます八百万の神々が自然と結びついている神話の意味が少しわかったような気がします。