火垂るの墓

高畑勲さんがお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。

追悼というわけで火垂るの墓が放送されていましたね。

今は平成の世の中、もう次の元号が決まろうかという時代になり、こうやってインターネットでブログが書けて世界中の人たちとお話ができる近代的な時代に生きていて、どうしても考えられない、想像もつかない、あんなに悲惨な現実がこの日本にあったのかと疑ってしまうような、眼を背けたくなる歴史的な事実。

ところが、年配の人たちと話をするとその悲惨な状態が本当にあったんだと思い知らされます。

火垂るの墓のお話は、野坂昭如さんが書いた短編小説が原作だそうで、妹が4歳で兄が14歳という設定は、著者が1歳の妹と14歳の自分の実体験をもとに書き上げたのだそうな。

もちろん、創作の部分もあって悲惨な状態が現実以上に誇張されて描かれているかもしれないわけだけれど、どうだろう…餓死する人はたくさんいただろうし、身体が弱かった人はたくさん死んだだろう。

裕福な家に生まれお金を持っていた14歳の兄は、社会から孤立してでもプライドを通して妹を連れていった。それは本当に正しかったのか、大切なものを守るためには社会に受け入れてもらう努力も必要だったんじゃないかと、高畑勲さんが言っていたんだそうな。

食べ物が無くなって頼った、農家のおじさんが言ってたセリフがそうだよね。

だから、火垂るの墓について意地をはって死を選んだ事を批判する人もいる。

いやいや、それは問題じゃ無いよ。

そう思う理由は、ほんの小さなことからでした。

昭和10年生まれの人のお話。ちょうど火垂るの墓の登場人物の年齢の中間ぐらいに位置する人です。

田舎で暮らしていたから、食べ物に困ることはなかったんだそうな。けれど、戦争中は小学校で毎日が農作業。長男ではないから中学校を出たらすぐに働きに出たらしい。ところが、それを自分の子どもに打ち明けることはできなかったんだって。戦後の日本を立て直した世代、高度成長期をむかえて、もうその子どもたちは十分に豊かでしっかりと教育を受けられた時代。そんな自分の子どもに大学に行って勉強しなさいと言うのに、自分が中学しか出ていないことを打ち明けることはできなかったという。

戦後の大混乱の時期に、5人兄弟の次男だったその人。兄は東京の大学を出るまで仕送りで学校に通わせてもらえて、他の兄弟はそんな風にはしてもらえないという現実。

もうひとつ。
大正生まれの人のお話。

19歳で志願して北京の日本陸軍の総統府に赴任していたのだそう。戦争が終わっても中国大陸では内戦が続いていたのだそうな。それは歴史で習ったけれど、実体験として聞くと本当だったのかと身につまされる。
戦後に中国共産党軍が国民党軍と内戦を繰り広げて、国民党軍が台湾へ逃げたというのは歴史の教科書で読んだけど、その国民党軍が共産党軍と戦うためにその人の所属する日本陸軍…といってももう戦争は終わっていて日本陸軍に組織的な実態は存在しないのに、「共産党と戦うために力を貸してくれ、一緒に戦ってほしい」と頼まれたという。

それから、日本に帰国するまでの時間を、中国大陸で内戦を戦っている国民党軍の守備をしていたんだそうな。

「そりゃむごいこともしたよ。戦争だったからね」
と言いながら、

「日本の軍隊はそりゃ強かった。国民党軍も頼るぐらい強かったんだ」
と自負も垣間見える。

そして最後に

「戦争はしちゃだめだ」

とかならずつぶやいて話は終わる。その会話が何度も何度も繰り返される。

いやあ、なんでしょうねえ。あまりに想像がつかなさ過ぎて、どうしてよいのかわからず、ぼーっとしちゃう話。

月並みなんだけど、戦争はしちゃいけない…悲惨なだけだと思う。けれど、戦わなければ身を守れないときにはその時代の流れに巻き込まれるのも仕方のないことだったろう。戦争反対とかそんな月並みなこと、簡単に言えやしない。ていうか、そんな国レベルの話はどうでもいいや。

空襲の後のあの瓦礫の街は、震災の時の火事の後のようだった。

戦争反対とかデカい話よりも、もっともっと強く思うことは、自分がそんな悲惨な現実に直面したとき、その2人のお爺さんのように、強く生きることができるだろうか。ってこと。

現実から目を背けて死を選んでしまった兄妹のお話と、現実に立ち向かい強く生き残った人のお話。どちらが正しいとかそんなのどうでもよくって、けど、そうやって生き残った人がいるから、今の自分たちがいるわけで。

そう思うと、今の暮らしの苦労や辛さなんてすべて吹き飛んでしまうなあ。